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信仰体験談

イエス・キリストとの出逢い  

 

 

私が神様を信じたのは約20年前の事です。

きっかけは、近くの教会で行われていた伝道集会に参加し、ある牧師先生の話を聞いた事でした。

 

その先生は、大学時代にラグビー部に入り、練習や試合に打ち込んでおられたそうですが、

それらが終わると、いつも空しさが込み上げてきてどうしようもなかったそうです。

 

ちょうどその頃、ある教会の方から

「聖書の中の、新約聖書にある4つの福音書を何度も読んでみて下さい」と勧められ、

その先生は、「とにかく読んでみよう」と繰り返し読んでいくうちに、

次第に神様を信じ、従っていく決心をされ、最終的に牧師になられたということでした。

 

私はその先生の体験談を聞き、

「体格的にも恵まれ、得意なスポーツに打ち込むという充実した学生生活を送りながら、

空しさに襲われることがあるのか」と驚きました。

 

私は中学生の頃から、

「自分が何のために生まれ、生きていく必要があるのか」という事が、頭から離れませんでした。

毎日同じことを繰り返して年を取り、後には何も残るものはないと…。

 

私もこの牧師先生が信じている神様を信じてみたいと思いました。

その後、ほかの先生から、

「人の心の中には、神様だけにしか埋めることができない空洞がある」と聞きました。

 

誰もが一度は、そのような心の空しさを感じたことがあるのではないでしょうか。

 

 

無意識の罪

約30数年前、義母が病死し、

目が見えないという障害を持つ義父のお世話をするようになったのは、私が29歳の時でした。

それは私にとって、思いもかけない事でした。親の介護など、まだずっと先の事だと思っていたからです。

 

義父は高血圧で、運動不足のため太り気味だった事もあり、

毎日約1時間、私は義父と一緒に歩き、病院に通うという生活が始まりました。

しかし、盲人の手びきというのは、他人から見ると腕を組んで歩いているようにしか見えません。

 

事情を知らないほとんどの人たちは、私の夫だと思っていたようです。

 

歩いているとすれ違う人や車で通り掛かった人が、振り返っては覗きこむように見ていくのです。

私は顔を見られないように、出来るだけ下を向いて歩くようになりました。

 

「気の毒で見ていられない」など、様々な事を言われ、

「こんな惨めな姿を知り合いの人には見られたくない」と、

次第に、人通りの少ない道を選んで歩くようにしました。

 

逃げ出したい気持ちになる事もよくありましたが、

幼い時に実父を失くしている私には、義父を見捨てる事は、どうしても出来ませんでした。

 

ところがある時、病院ですれ違った人を何気なく振り返って見た時、

かつて、あれほど嫌っていた事を自分がしている事に気付きました。

自分がしている事は、ほんの些細な事であったとしても、他人から受けた傷は大きいものです。

 

この矛盾した感情こそが、自分の「罪」の1つなのだと分かりました。

すべての出来事は必要だった

あれから30年以上が過ぎ、自分の人生を振り返ってみる時、

これまでの数々の体験がなければ、教会へ行き、

この聖書の神様を信じるという機会もなかったのではないかと考えると、

今では、全ての事が自分には必要だったのだと思っています。

 

また、信仰を持ち始めた当初は、

「自分には、確かに聖書に書かれているような悪い所があるけれど、

人間には誰でも欠点があるし、そのように造られているのだから」

と、ある意味、欠点は仕方ない事だと決めつけ、自分の罪深さを軽く考えていた私でした。

 

しかし、聖書を学んでいくうちに、それでは今までと何も変わることはできないと気付かされ、

変わりたいと願うようになりました。

 

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んで下さったことにより、

 神が私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(聖書)

 

私はかつて、自分の罪が分からず、何の為にイエス様が十字架上で死なれたのかが分からずにいました。

 

しかし、今は分かります。

私の罪の身代わりに死なれ、そして復活されたことを信じ、自分の罪が赦されたことを感謝致します。

 

イエス様を信じたことによって私は、この世で生きる意味を見出すことが出来ました。

(宮崎市在住 K・Yさん)

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