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綾バプテスト教会の歴史

 

1952年9月2日

米国テキサス州ヒルスプロのウオーナットストリート・バプテスト教会(Walnut Street Missionary Baptist Church)より派遣された、ユージン・M・レーガン宣教師来日。横浜にて伝道を開始。

1953年9月6日

米国人中心の6名の発足会員により「新契約バプテスト教会」として教会組織される。初代宣教牧師にユージン・M・レーガン師が就任。

1957年1月22日

J・D・ポーク師が来日。第2代牧師に就任。

 

1962年8月23日

米国アーカンソー州ホット・スプリングスのオークラウン・ミッショナリー・バプテスト教会より、ベニー・J・マクワ師が家族と共に来日。第3代牧師に就任。

1964年11月3日 

日本バプテスト連合(JBA)が4教会(新契約・ミッショナリー・柏・沼津)により組織された。

 

1966年3月3日

天利信司師が第4代牧師に就任。

1973年7月31日

天利信司師、牧師辞任後、新契約バプテスト教会の国内宣教師として千葉県我孫子市に派遣され、「バプテスト我孫子キリスト集会」の名称で開拓伝道を開始した。

1980年9月23日

教会名を「我孫子バプテスト教会」として、教会組織。

初代牧師に天利信司師が就任。

1998年10月6日    

当時の我孫子バプテスト教会宮崎伝道所(めぐみバプテスト教会)の家庭集会が上園英身兄宅にて初めて行われた。

1999年1月18日   

旧礼拝堂建設に着工。

1999年5月9日     

献堂式(旧礼拝堂)

 

1999年5月16日    

献堂された礼拝堂において午後2時より初めての礼拝式が行われた。以後9月まで毎週日曜日午後2時より「バプテスト綾キリスト集会」の名称で集会を行った。

1999年10月       

宮崎伝道所(めぐみバプテスト教会)の閉鎖に伴い、集会の開始時間が午後2時から午前11時に変更になる。

1999年12月        

宮崎伝道所(めぐみバプテスト教会)の閉鎖並びに上園英身伝道者のバプテスト説教者承認により「バプテスト綾キリスト集会」は、正式に我孫子バプテスト教会の綾伝道所として活動することとなる。

2002年11月24日  

上園英身伝道者が我孫子バプテスト教会より按手礼を受け、国内宣教師としてバプテスト綾キリスト集会に派遣される。

2006年12月3日    

教会名を「綾バプテスト教会」とし、教会組織。

上園牧師が初代牧師に就任。

「日本における宣教バプテストのはじまり」

第二次世界大戦中の昭和18年(1943年)7月29日。

日本海軍は木村昌福(まさとみ)中将を司令官として、約3万5千人のアメリカ・カナダ軍によって完全包囲されていた、太平洋北部のアリューシャン列島の米国領キスカ島から、日本軍の守備隊約5200人を無血救出しました。

その2ヶ月前の5月29日には、隣り合わせのアッツ島で約1万1千人の米軍によって、約2千5百人以上の日本兵が玉砕したのです。

太平洋戦争中に多くの激戦地で日本軍と戦ったアメリカ軍の中に、ユージン・M・レーガン大尉がいました。彼はアッツ島でも参戦していました。

ある日、戦いの最中に一人の日本兵が両手を上げて坂を下りて来ました。そしてその途中で足を滑らし、尻もちをついてしまいました。すぐさま立ち上がり、手についた泥をズボンの尻で拭い取ろうとした時、レーガン大尉の護衛兵がピストルを抜くものと勘違いして射殺してしまったのです。

死亡した兵士の身体検査をしたところピストルは発見されず、彼のポケットから一冊の本が発見されました。それは新約聖書でした。

その後、レーガン大尉は3~5ヶ月にわたる激しい沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされている1945年6月23日まで軍籍にありました。(その後も沖縄本島や近隣の島々では局地的な戦闘が続けられ、南西諸島守備軍代表が降伏文書に調印したのは9月7日のこと)。

 

1945年8月6日に広島、9日の長崎への原爆投下がなされ、9月15日に日本と連合軍がアメリカの戦艦ミズリー号上で無条件の降伏文書への調印をして終戦となりました。

 

レーガン大尉は日本本土の占領軍の一員に加わることを志願しましたが、医師から心臓病との診断を受けて除隊することになりました。

 

退役後、彼はテキサス州のヒルズボローに帰郷、兄のロイス・レーガンが執事をしていた市内のウオルナットストリート・バプテスト教会に出席するようになりました。

 

彼はずっと、アッツ島で新約聖書を隠し持っていた日本兵のことを忘れられずにいました。そしてついに、かつて日本軍と戦った自分を捨て、キリストの福音によって日本人を救いに導く務めを果たす者になる決心をしたのです。

 

1952年、主の働きに説教者として通っていたアーカンソー州リトルロック市にあるミショナリー・バプテスト・セミナリー(神学校)の水曜チャペル礼拝の席上で、福音宣教のために日本に行くと宣言しました。

 

同年、レーガン先生はテキサス州ヒルズボローのウオルナットストリート・バプテスト教会の宣教師として日本に送り出されることになり、援助応援を受けるためにアメリカン・バプテスト連合(ABA)の諸教会に推薦され、1952年9月2日に横浜港に到着しました。

 

レーガン宣教師の日本での活動は2年にも満たないものでしたが、滞在期間中は日曜日の朝と夜、月曜日、水曜日、金曜日の夜に、休むことなく集会活動を続けました。そして、ご一家の来日から1年後の1953年9月6日、レーガン宣教師は多くの姉妹教会の祈りと援助に支えられ、6人の会員で新契約バプテスト教会の組織に踏み切りました。

レーガン宣教師は滞在中に16人(うち5人が女性)にバプテスマを授けましたが、ドクターストップがかかったために、1954年8月20日に帰国の途に就きました。

 

天地は主なる神によって創造されました。

「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1章1節)

同じ主が教会の創造者でもありました。

「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」(マタイによる福音書16章18節)

 

古代から現代に至るまで、人類は第一次、第二次世界大戦など、死と破壊の匂いを嗅ぐという恐ろしい経験を重ねてきました。

しかし、そのような最悪の事態の中にも、主はいつも生きて働いて下さったのです。それは、私たちがもれなくキリストの福音を聴き、その主の恵により、主イエスの教会の一員に加えられる機会が与えられるためでした。私たちは主から賜ったこの恵みを、一人でも多くの人達と時空を超えて分かち合っていくべきではないでしょうか。私たちの先輩、先達を模範として。

「継ぐとは創ると同じぐらい思い仕事である」

(2009年10月25日 朝日新聞天声人語欄より)

 

文責:金生谷繁雄牧師・河原陸夫牧師

日本バプテスト連合壮年会文集「永遠」14号より:2010年4月29日発行)

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