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信仰体験談

イエス・キリストとの出逢い  

 

「心から安らげる場所」

 

 

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。

わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(聖書)

 

私がイエス様を信じたのは21歳のときです。

 

きっかけは、21歳の夏。―――追突事故に遭い、入院したことでした。

 

当時の私は、仕事やスポーツなど、慌ただしくも充実した日々を送っていましたが、充実感は一時的で、その時は本当に楽しいのですが、それらが終わると、いつも心の中には、ぽっかりと穴があいたような空しさがありました。

「生きるとは何なのだろう。これから何を目指して生きていけばよいのだろう・・・」

入院中、そんなことを思いながら、占い・スピリチュアル的な本、自己啓発本などを読みあさり、その答えを懸命に探していました。

 

入院中、患者さんの間で評判の良い若い看護師さんがいました。入院中は、ほとんど話すことはありませんでしたが、退院後、同室の方たちと開いた退院祝いの席で、その看護師さんがクリスチャンで、綾の教会へ通っていることを知りました。

 

カトリック系の短大を卒業していた私は、

「教会なら何か答えが見つかるかもしれない!」

と思い、早速連れていってもらうことになったのです。

私は「クリスチャン=マザー・テレサ」という、寛容で柔和なイメージを持っていましたが、短大に入学した途端、もろくも崩れ去り、一気にマイナスイメージを持ってしまいました。というのも、あるシスターがヒステリックで、私たち学生をいつも軽蔑の目で見ているような感じだったのです。

しかし、聖書の話はとても興味深いものでした。その聖書のことばや教えは、当時、人間関係に悩み、うつになっていた心の支えになっていました。

 

これまで私は、教会はどこも同じで、カトリックがすべて。

「キリスト教=カトリック」だと思い込んでいたのです。しかし、綾の教会へ初めて行ったとき、同じキリスト教会でもこんなにも違うのかと衝撃を受けました。言葉では上手く言い表せないのですが、家とは違う温かさのような、心の安らぎがそこにはありました。

 

私はこれまで、家にある仏壇・神棚をとても大切にしてきました。

毎朝、線香をあげ、ご飯やお花を供え、般若心経を唱え、先祖を敬い熱心に仕えてきたのです。

しかし、牧師先生と話をする中で、一番私の心の中に深く刺さったことは、「一番身近な先祖である両親を大切にしているか?」という問いかけでした。私はその時、初めて自分が両親に対して無関心であったことに気づかされたのです。いくら先祖を大切に想ったとしても、一番身近な先祖を想わなければ何の意味もない。同時に、聖書の神様のことを知れば知るほど、私があれほど熱心に拝んできた「神」とは一体どんな方なのか?・・・結局のところ、私の中には、何もなかったのです。

 

「何も分からないものに対して、なぜ私は、こんなに熱心に拝んできたのだろう?」

 

一瞬にしてそれらは無意味なものに変わりました。こうして、初めて教会へ行ってから3日後に、私はイエス様を信じました。心にあった空しさは、決して物や人で埋まるものではなく、神様の愛でしか埋められないことを体感しました。

 

信仰を持つ前は、

「私は犯罪をおかして捕まったこともないし、人と比べてそんなに悪いこともしていないだろうから、きっと天国にいけるだろう」

と漠然と思っていました。

要するに、常に他人と比べて、自分の物差し(価値観)で善悪をはかっていたのです。

 

しかし、教会へ通い出すにつれて、これまで平気だったあらゆることに、段々と罪の意識を持つようになりました。そして、自分が描いていた天国行きの基準とは、なんて自分勝手なものだったかと気付かされました。まさしく自分が中心、自分が神だったのです。

 

また、短大卒業以降、人間関係で悩み苦しんだ当時を思い出すことが苦痛で、短大方面へ足を運ぶことや、卒業アルバムを開くことが出来ないままでいました。しかし、神様を信じるようになってから、初めて卒業アルバムを見ることができ、過去の自分と冷静に向き合うことが出来ました。そして、他人を妬み・恨み・憎むことで自分を保ち、他人のせいにばかりしていた過去を思い出し、すべては自分に問題があったことに気付かされたのです。

 

ある時、十戒の本を借りて読んだ時に、神様の願う生き方から、自分があまりにも外れていたことを知り、汚れた自分に耐え切れず「もう生きていけない」と、一人、号泣しました。

「もっと早く神様に出会っていれば!」

「もっと早くこのことを知りたかった!!」

そんな後悔の思いが沸き起こりました。

しかし、すべてに神様の時があること、神様は最善をなしてくださること、すべてのことを益としてくださることを知りました。

そして今は、いつか誰かの苦しみに寄り添うために、私のこれまでの経験・失敗が、用いられれば良いと願うのです。

 

こんなに罪深い私のために、イエス様が身代わりとなって死んでくださったのかと思うと、ただただ感謝の思いしか出てきません。

神様に従う人生が、どれほど喜びに満ち、心安らぐ日々であるかを、たくさんの人に知ってもらいたいと願います。

 

これを読んだあなたにとって、教会があなたの安らぎの場になることを心から願います。

共に、神様の愛を分かちあうことが出来れば幸いです。

 

T・Nさん(綾町在住)

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